ロゴ

アインシュタインとお茶を:100歳を迎えたGEの元エンジニアが振り返る科学の進歩と自身の半生

ダニエル・クルーガー

幸せな星の下に生まれた人の中でも、GEのエンジニアとして務めその後学者となり、2月7日で100歳を迎えたピエール・アベッティ(Pier Abetti)は群を抜いています。イタリア中部フィレンツェ郊外の町アルセトリに暮らしていた彼とその家族は天文台の近くに住み、父のジョルジオと祖父のアントニオは星や銀河、太陽の重要な観測を行っていました。この天文台は偶然にもかの有名な天文学者ガリレオ・ガリレイが自らの発見によって晩年を軟禁状態で過ごすこととなった家の隣です。科学はアベッティの血筋のみならず、彼の運命だったと言えるでしょう。

彼がまだ子供だった1920年代、自宅では父親が科学者仲間を招いて午後にお茶会がよく開かれていました。後のノーベル賞受賞者となるエンリコ・フェルミ(物理学賞)やGEのアーヴィング・ラングミュア(化学賞)等の著名な科学者たちを母がリビングでもてなしていたとアベッティは振り返ります。1929年、ある客人が8歳だった彼の髪をくしゃくしゃにしながら「この子はとても頭がいい。おじいさんやお父さんと同じようにいつか有名になりますよ」と両親に伝えました。このアルバート・アインシュタインの言葉をアベッティは今でも覚えています。

アインシュタインが帰った後、アベッティの母親は息子の腕をしっかり掴んでこう言いました。「自惚れないでね。彼はただ、頻繁にお茶に誘われたからお礼のつもりでああ言ってくれただけなのよ。」

ピエールの父のジョルジオ(左端の後ろでユニフォームを着用)は、1917年にニュージャージー州オレンジ市でGE創設者であるトーマス・エジソンと面会したグループの一人。 画像提供:ピエール・アベッティ

しかし、アインシュタインもアベッティ夫人もピエールの素質に気付いていたに違いありません。母は夫であるジョルジオの類まれなる頭脳を誇りに思いながらも、実用的な知識ではない点で苦労することもあり、その素養を一人っ子のピエールに身に付けさせようとしていたのです。第二次世界大戦後、母は息子に荒廃した祖国を離れて米国に移住するよう説得しました。渡米したピエールは電気工学の博士号を取得し、エンジニアとしてGEに入社しました。彼はコンピューターの開発、送配電網の改良、その他の分野で重要な役割を果たし、同社の戦後の成長に貢献しました。

元々じっと座っているタイプではないアベッティですが、その長年にわたるキャリアは大変有意義なものでした。1946年に渡米した際、彼は最初に現実的な決断を下します。マサチューセッツ工科大学ではなく、イリノイ工科大学で勉強することを選んだのです。前者はすべてを自費で負担する必要があったのに対し、後者は奨学金と毎月125ドルの生活費の支給があったことが理由でした。「自分にとっては、ものすごい大金のように思えたんです」と彼は語ります。

1948年、アベッティは大学の教授の口利きもあって、当時、変圧器に関する先駆的な取り組みをしていたマサチューセッツ州のGEの工場で職を得ました。「アメリカで一番の会社だ」と教授に言われました、とアベッティは振り返ります。

アベッティは、フィレンツェのアルセトリ天文台の近くで育ちました。後にノーベル賞を受賞することとなるアルバート・アインシュタイン等の科学者がお茶を飲みに自宅を訪問。父親のジョルジオは1917年にトーマス・エジソンと面会。最上部の画像提供:ピエール・アベッティ  上部の画像提供:ゲッティイメジーズ

アベッティの最初の仕事は落雷による変圧器の故障頻度を低減することでした。「(雷は)変圧器の大敵です」と彼は言います。当時の変圧器は1個が100万ドル相当でした。人工落雷試験での故障率は30%で、これが顧客にとっての大きなフラストレーションであり、GEの収益を大きく損なうものでした。そこで、アベッティは変圧器の性能を正確に再現できる電磁モデルを開発し、故障率をわずか3%にまで低減。この優れた功績が認められ、当時のGE社員にとって最高の栄誉であるチャールズ・A・コフィン賞(the Charles A. Coffin Award:GE初代CEOの名前に由来)を受賞しました。

アメリカは急速な変化を遂げ、政府や産業界は初期のコンピューターを使い始めました。常に好奇心旺盛なアベッティは、パンチカードが大流行していた1950年代にコンピュータープログラミングのトレーニングコースを受講し、修了後はコーディングを独学で勉強して同僚のスタン・ウィリアムズと変圧器の設計プロセスを自動化するプログラムを開発しました。当時、2人のエンジニアがスライド定規と1000ページの取扱説明書を駆使して変圧器の設計に要した期間は9ヶ月でした。一方、アベッティのプログラムは、最高の設計仕様を採用したもので、数千もの困難な計算を自動的に実行することで人為的ミスを削減し、処理時間を1.5日に短縮するというものでした。この新しい自動化プロセスは顧客の間で大人気となりました。「数多くの設計を試して、顧客に好きなものを一つ選んでもらうことができたんです」と彼は振り返ります。

アベッティは変圧器を改良することで送電技術を向上させました。画像提供:ピエール・アベッティ

1957年、アベッティは新たな重要任務を引き受けました。GEの超高電圧送電技術の改良です。GEが競合他社であるウェスチングハウス(Westinghouse)やアリス‐シャルマーズ(Allis-Chalmers)と熾烈な競争を繰り広げているときのことでした。アベッティは3年をかけて、全長10マイル(約16キロ)の試験的な送電網にGEのターミナル機器(変圧器、回路遮断器、避雷器など)を配備したショーケースを作り上げました。完成時には、開始時の実績である345キロボルトの2倍以上となる800キロボルトにも耐えられる送電網になりました。このプロジェクトにおける彼の功績はフォーチュン誌にも取り上げられました。現在では送電網のデジタル化や、再生可能エネルギーの利用拡大に向けたその活用が進んでいますが、「自分にとってはこれが送電網に対する最大の貢献だった」とアベッティは話しています。

キャリアを積んで管理職に昇進したアベッティは、1961年からニューヨーク州スケネクタディにあるGEアドバンスドテクノロジー研究所の責任者として、初代ソリッドステート変圧器及びGE電気自動車のプロトタイプの開発を統括しました。しかし欧州にいる家族が恋しくなり、子供達に父側の祖父母に会わせてあげたいという想いから、アベッティは海外勤務を希望しました。1963年、ローザンヌ(スイス)に転勤となったアベッティは、西ヨーロッパ全土におけるコンピュータシステムの販売及び設置を担当し、最終的にはパリの大型コンピューターシステムグループの主任に昇進しました。その後、アリゾナ州フェニックスの大型コンピュータシステム及び携帯電話通信を含む多様なプロジェクトに従事するため1967年にパリを離れます。(フェニックスでは、GEの優れたエンジニアとしてビジネスコンピュータを設計した、映画監督スティーヴン・スピルバーグの父でもあるアーノルド・スピルバーグと僅かの差で同僚になる機会を逃しました。)

ピエール・アベッティとGEでカスタマーエデュケーションのグローバルリーダーを務める甥のクリスチャン・バリー(Christian Barry)。アベッティは、2021年2月7日に100歳を迎えました。画像提供:クリスチャン・バリー

アベッティは、学問の大切さ、そして実利的な理由から、知識を得ることを常に重視してきました。幼少時代に自宅を訪れていた科学者たちは世界各地の出身であったため、アベッティは小さい頃からフランス語、ドイツ語、英語に慣れ親しんでいました。つぎに彼が学習したのは、バスク語(スペイン北部のGE工場で働くマネージャーと会話するため)、日本語(ジョイントベンチャーで東芝の重役と話すため)、フィンランド語(純粋に興味があったため)等、約20言語にものぼります。フィンランド語は大いに役に立ちました。フィンランドの経済大学で19年間夏期に教鞭を執り、ヘルシンキ周辺で16のビジネスインキュベーターのネットワークを立ち上げたためです。

GEに34年間勤務した後、アベッティは第二のキャリアを開始して、ニューヨーク州トロイにあるレンセラー工科大学(Rensselaer Polytechnic Institute)でマネジメントの講義を始めました。さらに、南アフリカ、アイルランド、ポーランド、スロバキア、韓国等の多くの国々においてもテクノロジーインキュベーターの立ち上げを支援しました。彼は、世界中の人々が持っている起業家としての潜在能力が開花することの価値を強く信じています。「発展途上国にさらなる平和と発展をもたらすこと、つまりは食糧と教育を提供することに挑戦しています」とアベッティは語ります。「大きな課題ですし、まだまだやるべき事は沢山あります。」

アベッティは、2016年にレンセラー工科大学での教職を退きましたが、今でもデジタルテクノロジーの最新動向に注目しています。ある意味、近年のイノベーションの動向とそのエキサイティングなムードは、彼がGEに入社した頃の雰囲気と重なるところがあるのです。その一方で、ブロックチェーンやいわゆるビッグデータのような最新技術は、変圧器や送電線のような実用的なものとは異なる点も感じています。「当時はもっと身近で現実的でしたね」とアベッティは語ります。

メール配信メール配信