
GE初のコンピュータ開発に貢献したアーノルド・スピルバーグが103才で死去。映画監督スティーブン・スピルバーグの父。
トマス・ケルナー
映画監督のスティーブン・スピルバーグは十代のころ、父アーノルドの仕事場を訪れました。それは1950年代後半、アーノルドがアリゾナ州フェニックスのGEでコンピュータを開発していたときのことです。彼の構想には革新的なマシンが含まれており、後にダートマス大学のコンピュータ科学者達がBASICと呼ばれるパーソナル・コンピューティングに革命を起こしたプログラミング言語を開発するのに利用されるほどの性能でした。この工場についてスティーブン・スピルバーグは、「部屋のなかを歩いていると眩しくて目が痛くなったのを覚えているよ。」とGEレポートに話しています。「父はコンピュータの機能について説明してくれたんですが、当時の僕にはコンピュータサイエンスの話は外国語みたいなものでした。なんだかとてもエキサイティングだったけど自分には無縁のものだと思っていました。それが80年代になって初めて、父のようなパイオニアが創り上げたものが生活必需品になっているんだと気付かされたんです。」
アーノルド・スピルバーグは、8月25日(火)に103歳で死去しました。
GEレポートは2016年、ロサンゼルスにあるアーノルド・スピルバーグ氏の自宅を訪問。バラク・オバマ前大統領、ハリウッド著名人や家族との写真、年代物のテレグラフ等の発明品、額入りの特許登録証(合計で12の特許を取得)に囲まれながら、コンピュータ、SFへの情熱、クリストファー・ノーラン監督「インターステラー」等のハリウッド大作映画に携わった体験についてお話を伺いました。インタビューの内容(編集済み)をここでご紹介しましょう。同氏の101歳の誕生日を記念して制作された動画に訪問時の映像が含まれていますので、そちらも以下からご覧いただけます(英語)。
GE レポート: 1950年代にコンピュータの設計を始められたとき、こうしたテクノロジーはまだとても新しいものでした。どうしてこの職種を選ばれたのでしょう?
アーノルド・スピルバーグ: 昔から電気には興味があって、磁石やラジオをいじるのが好きだったんです。エジソンやテスラのことは知っていましたが、それほど詳しくはありませんでした。初めて鉱石ラジオキットを入手したのは9歳のときです。ダイオードで電波を探知するというもので、それを使って遊んでいたんですが、隣に住んでいたラジオ修理工が接続を手伝ってくれるまではちゃんと動きませんでした。
GEレポート: 他にはどんなものを作っていたんですか?
アーノルド: 工具店で「エレクターセット」(部品を組み合わせて自分の好きな乗り物などを作れるおもちゃ)を目にしたときは、店主にこう言いました。「これで蒸気ショベルを作るから店頭に置いて欲しい。そしたらエレクターセットがもっと売れるよ」とね。渋々でしたが承知してくれたので、毎日、学校が終わったら店の後ろに座って組み立てました。それから母親を店に連れて来て自分の完成品を見せたら、案の定、ハヌカ(12月に行われるユダヤ教の祝日)のプレゼントにエレクターセットを買ってくれました。ほかには、SFにも大きな影響を受けましたね。近所に双子がいたんですが、その子が初期のSF雑誌「アスタウンディング・ストーリーズ・オブ・サイエンス・アンド・ファクト」を読んでいて。一冊くれたので家で読み始めたらもう夢中になりました。この雑誌は後に「アナログ・サイエンス・フィクション・アンド・ファクト」に改称したんですが、今でも購読しています。
GEレポート: GEで働くようになった経緯を教えてください。
アーノルド: シンシナティ大学で電気工学を勉強して1949年に学位を取得しました。最初の就職先はRCA社です。そこでミサイルシステムの電子回路を設計していたんですが、コンピュータ事業が始まったときにそのグループに参加しました。その後にGEに移ったんです。
1955年、ニューヨーク州スケネクタディにあるGEのコンピュータ部門に入社しました。最初の仕事は、GE初となるプロセス制御用コンピュータの回路を設計することでした。この部門は立ち上がったばかりだったんです。平日はYMCAに滞在して、週末になれば当時まだニュージャージー州に住んでいた家族に会いに戻っていました。

GEレポート: コンピュータの用途は?
アーノルド: 最初のコンピュータは産業用で、顧客はピッツバーグのジョーンズ・アンド・ロックリン・スチール・カンパニー社、オハイオ州のヤングスタウン・シート・アンド・チューブ社、ミシガン州のマクロス・スティール社等の製紙工場や製鉄所でした。こうした会社は、熱間圧延機(hot strip mill)用制御システムを初めて使用した顧客だったんです。
GEレポート: コンピュータの機能はどのようなものだったのでしょう?
アーノルド: 私が最初に作ったコンピュータはデータ収集システムで、欠陥をモニタリングするものです。配線式プログラム(注)システムが用いられ、そのタスクの実行だけに特化した設計となっていました。それから「GE-312」というマシンは、サザンカリフォルニアエジソン社のタービンを監視するコンピュータなんですが、「ストップ」と「スタート」を行うことはこのコンピュータの寿命を縮めてしまうので私達が手を触れることなどありませんでした。したがって、その機能は温度が規定範囲内にあって、すべてのスイッチが規定通りに開閉しているかを確認することだけでした。
(注:配線式プログラムとは、コンピュータで行いたい計算の実行を電子回路で制御すること。処理は高速だが、複雑な計算には不向き)

GEレポート: ダートマス大学がBASICの開発に使用したコンピュータについて教えてください。
アーノルド: それまでのコンピュータと違って、「GE-225」と呼んでいたマシンはビジネス・コンピュータだったんです。独自のソフトウェアを備えていて、情報のインプットやアウトプットを実行するというもの。工場はフェニックスに移転して、GE社内や外部の市場で販売しました。GEではこのマシンを一般的なビジネスアプリケーションや科学的な研究で活用していましたが、大半は事務処理に関連していましたね。私は小型コンピュータシステムグループの責任者となって、回路設計、ロジック設計、システム計画およびそれらをまとめる仕事をしていました。

GEレポート: この小型コンピュータとはどのくらいのサイズだったんでしょう?
アーノルド: このコンピュータには、高さが7フィート(約2m)で幅が2フィート(約60cm)ある機材収納ラックが3台必要でした。回路を冷却するため、各ラックの下部には空調装置が付いていました。8,000~16,000ワード(20ビットワード)のコアメモリ、最大32,000ワード(20ビットワード)の補助メモリを装備していて、磁気テープ、パンチカード、穿孔テープ等と接続することも可能です。
同僚のビル・ブリッジ(Bill Bridge)は、ダートマス大学の依頼でコンピュータからダム端末に情報を送信するためのコンピュータ・インターフェースを設計しました。ダム端末は計算を行うメモリや能力はなく、出入力を行うキーボード付きの装置にすぎませんが、15~20個の端末を一つのコンピュータに繋げればタイムシェアリングを行うことが可能です。GEは世界で初めてタイムシェアリングを実施し、複数の端末で1台のコンピュータを同時に使用することを可能にした企業となりました。
ダートマス大学は、コンピュータ言語「BASIC」を開発するためにGEのコンピュータにプログラムを組み込みました。このように、人間がシステムを問題解決に使用したり、コンピュータから出力される情報を処理することができるようになったのです。スティーブ・ウォズニアック(Steve Wozniak)は、Macのソフトウェアを開発するときにこうしたリモート端末を使用したのかもしれませんね。
GEレポート: あなたの仕事に家族や友人は理解を示してくれていましたか?
アーノルド: 当時、コンピュータに興味のある友達はあまりいませんでした。とても謎めいていたんでしょうね。息子のスティーブンが仕事場に来たとき、工場とエンジニアリングフロアを見せたことがありました。エンジニアリングに興味を持ってもらおうとしたんですが、息子はすっかり映画に心を奪われていました。最初はがっかりしましたが、すぐに映画制作の才能があると気がつきましたよ。
GEレポート: ご自身も映画制作に携わっていらっしゃいますね。
アーノルド: カリフォルニア工科大学に行って、天体物理学者のキップ・ソーン(Kip Thorne)やリサ・ランドル(Lisa Randall)をはじめとする科学者の皆さんに会って、映画「インターステラー」制作のため、ブラックホールに関するアイデア交換をしたんです。ブラックホールのサイズやその実現可能性、ブラックホールが実在する可能性について色んなアイデアを話し合えたので、本当に楽しかったです。
GEレポート: あなたがスティーブンをエンジニアにする代わりに、スティーブンがあなたを映画制作者にしてしまったんですね。
アーノルド: きっと血筋なんでしょうね。