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100年続くストーリー:有名小説家が執筆したりレーガン元大統領も登場したGE Reports、GEの広報活動が100周年を迎えました

トーマス・ケルナー

シラキュース・ニューズ・スタンダード紙(Syracuse News Standard)の編集者、チェスター・ラング(Chester Lang)は自身のデスクでGEについて考えていました。彼は不満を感じていました。同紙の日曜版の編集者としてラングは面白いビジネスニュースを追いかけていたのですが、彼が編集者になった1917年当時、GEほど重要で興味を惹く企業はほかにありませんでした。しかし、ひとつ問題がありました。「GEについて記事を書くことはいつも気乗りしない作業でした」とラングは後に述べています。とりわけ気に入らなかったのは「専門用語ばかり使われているニュース」しかもらえなかったことでした。

ラングは先見の明があったため、GEに自分のアイディアを提案しました。「本当のニュース記事」を取り扱う「本当のニュース局」を社内に開設してはどうかと言ったのです。「担当したさまざまな特集記事を通じ、ゼネラル・エレクトリックがニュース形式で広報活動をすれば、きっといい宣伝になると感じました」とラングは述懐します。

GEはこのアイディアを気に入り、1921年10月にラングを採用してGEニュース局(GE News Bureau)を設立しました。この時から、GEの記者はジェットエンジン送配電網発電機レーザーLEDなど社会に貢献するイノベーションの数々を取り上げてきました。GEの経営陣のひとりが人類初の月面着陸を成功させたNASAのチームリーダーを務めたことをご存知でしたか?スティーブン・スピルバーグ(Steven Spielberg)の父親のアーノルド・スピルバーグがGEのためにコンピューターの設計と開発をしたことはどうでしょうか?GE製の2基のジェットエンジンを搭載した鉄道車両をオハイオ州の線路で走らせ、当時の米国の鉄道の最高速度である時速184マイル(約時速296キロ)を達成したドン・ウェッツェル(Don Wetzel)の名前を聞いたことはあるでしょうか?

注:1960年代、非電化区間が多かった当時の米国や旧ソ連において鉄道の高速化を図るため「ターボジェットトレイン」の実験が行われた。

チェスター・ラング(1932年に撮影)はGEニュース局(トップ画像)の編集長となりました。画像提供:GE

歴史研究家でニューヨーク州スケネクタディのイノベーションと科学の博物館(miSci:Museum of Innovation and Science in Schenectady)でコレクションと展示会担当バイスプレジデントを務めるクリス・ハンター氏(Chris Hunter)はこう語ります。「ラングの記事を読んだ人は、GEの科学者やエンジニアの技術力が自分たちの生活をより良くしてくれるものだと理解しました。これまでにニュース局が生み出したものがmiSciのコレクションの基礎となっています。私たちは科学者やエンジニアたちがどのように発電や電子工学、医用イメージング、交通輸送機関を進化させ、いかに世界を変えてきたかを皆さんに伝えています。」

GEは今もこの取り組みを続けています。GEのストーリーを伝える責任者として、現在のGE Reportsの筆者である私トーマス・ケルナーもラングの精神を引き継ぎ、未来につなげていく取り組みを進めています。

グローバルなハイテク企業が自らのストーリーを伝える必要があるのはなぜでしょうか。GEでは数千人のエンジニアと科学者たちがグローバルで解決が難しい問題の答えを探し続けています。研究の対象となるのは、気候変動やエネルギー転換プレシジョン・ヘルス、よりサステナブルな航空技術など、私たち全員に関わる大きな問題です。エンジニアや科学者たちが語るストーリーは、彼らの研究対象であるテクノロジーと同じくらい重要なのです。GEはストーリーを伝えることで読者に情報を提供し、賢明な選択を促して、よりよい未来を生み出します。

人類の歴史が始まったのは電気や本がこの世に現れるずっと前のことであり、文字を生み出すよりも前のことでした。歴史の中で生まれたストーリーは人類を団結させ、日々の生活を意味深いものとし、さらには歴史的な価値をも与えてくれます。私たちは自然にストーリーに反応します。人間がストーリーを伝える動物であること、そしてストーリーに耳を傾ける脳を持つことについてはたくさんの本が書かれています。そして、GEのストーリーを書けるのはGEだけなのです。

1969年の月面着陸を特集したGEモノグラム誌(GE Monogram)。GEの経営陣のトーマス・O・ペイン(Thomas O. Paine)がNASAのチームを率いていました。画像提供:GE

ラングはすぐにGEニュース局の編集長になりました。彼は回顧録でこう書いています。「早い段階で全面のニュース記事を各紙に掲載してもらうことができました。」記事が掲載された新聞には有名なニューヨーク・サン紙(New York Sun)も含まれていました。ラングが成功を収めることができたのは我々が今も使っている実績ある方法を使用したからです。つまり、いいストーリーを書けば人々は寄ってくる、ということです。

「ニュース局の記者には、最後にストーリーをよく読み返して、新聞記者だったときのことを思い出してみろと指導していました」とラングは書いています。「かつて新聞記者だった自分自身が読みたくなるストーリーが書けているかどうかを確認させるのです。私たちのストーリーが新聞記者の手助けになることが私の狙いでした。多忙な編集者が無料の広告のようにどれだけ多くの企業のプレスリリースをそのまま掲載するかには興味がなかったのです。」ラングはさらにこう書いています。「いつも独自の角度からニュースを探していました。新たな観点でニュースを伝えることで、読者が読みたくなるようなストーリーを書くことを心掛けていました。」

GEスケネクタディ・ニュース(GE Schenectady News)はGEが発行した数多くの出版物のうちの1つでした。1962年9月号では、GEのテストパイロットのエリオット・シー・ジュニア(Elliot See Jr.)について特集しています。シーとニール・アームストロング(Neil Armstrong)はNASA初の民間人宇宙飛行士として訓練を受けました。画像提供:ニューヨーク州miSci

100年前でも、読者に記事を読んでもらうことはなかなか難しいことでした。1920年に米国で初めて民間ラジオ放送が行われ、ラングはラジオを使えばニュース局の活動を拡大できると考えました。記者としての活動を通じてGEがラジオの開発に取り組んでいることはわかっていました。「ラジオに興味を持ったのは、ラジオが新聞のように情報やニュースを伝える手段だったからです」とラングは書いています。ラングは新たな情報伝達手段を活用することでニュースの価値をさらに高めようとしたのです。これは、現在GE Reportsの記事がLinkedInやYouTubeの動画などオンラインで提供されているのとまったく同じです。

当初、彼にはこの新しいアイディアを形にする手段がなかったのですが、1922年にGEは自社のラジオ局WGYを開局し(WGYは米国で初めて設立された10のラジオ局のうちの1つとなりました)、ニュース局のラジオ番組がレギュラー放送されるようになりました。

スケネクタディにあるGEのWGYを訪問した多くの著名人の中には、伝説の飛行士アメリア・イアハート(Amelia Earhart)とマジシャンのハリー・フーディーニ(Harry Houdini)がいます。miSciの歴史研究家のハンター氏によると、この写真は偉大なマジシャンを撮影した最後の写真のうちの1枚です。画像提供:ニューヨーク州miSci

ラング自身は有名になることはありませんでした(ラングはタイプライターで思い出を書きため、その資料がニューヨーク州のmiSciのアーカイブに保管されています)が、ラングの後にニュースを担当した人から有名人になった人がいます。その1人が「スローターハウス5」やその他のベストセラー小説の作者カート・ヴォネガット・ジュニア(Kurt Vonnegut Jr.)です。ヴォネガットは小説家の卵だった1947年にGEに入社しました。兄のバーナード(Bernard)がGEの研究所に勤務していて、この仕事を紹介してくれたのです。

ヴォネガットがGEで働いたのはたった4年間でしたが、精力的に仕事をしました。数年後、ヴォネガットは学者のロバート・K・ムージル(Robert K. Musil)に次のように語っています。「仕事を通じて科学者に会い、どのような研究に取り組んでいるのか取材することで面白いストーリーが生まれることがよくありました。」

ヴォネガットはこの経験をもとに処女作の「プレイヤー・ピアノ(Player Piano)」や、彼の最も人気の高い小説のひとつである「猫のゆりかご(Cat’s Cradle)」を書きました。温かい気候でも溶けない氷がストーリーの鍵となっています。ノーベル賞受賞者であり、GEの研究所で兄の同僚だったアービング・ラングミュア(Irving Langmuir)と話したときに、ふとこのアイディアが浮かんだとヴォネガットはジョージ・プリンプトン(George Plimpton)に話しています。「作家のH・G・ウェルズ(H.G. Wells)がラングミュアに会った際に、ラングミュアはSF小説のアイディアをウェルズに提供しようとして、室温でも溶けない氷について話しました。ウェルズは興味を示さず、このアイディアを使うことはありませんでした。その後ウェルズが死んで、とうとうラングミュアも死んだため『これでアイディアは自分のものだ』と思ったんです。」

1956年には「ゼネラル・エレクトリック・シアター」は米国で3番目に人気のテレビ番組となり、毎週2,500万人以上の視聴者がこの番組を見ていました。画像提供:GE Reports

ヴォネガットがGEを去った3年後に、もう1人の大物がGEの広報部に入りました。ハリウッドの映画スターで米国大統領を2期務める前のロナルド・レーガン(Ronald Reagan)がGEのストーリーをプライムタイムのテレビの全国放送で伝える役割を果たしました。8シーズンにわたってレーガンとレポーターのドン・ハーバート(Don Herbert)が米国各地にある130カ所以上のGEの研究所と工場を訪れました。2人はジェットエンジン(当時、このテクノロジーが生まれてから10年程度しか経っていませんでした)から最新のエレクトロニクスまであらゆるトピックをカバーしました。1956年には「ゼネラル・エレクトリック・シアター(General Electric Theater)」は米国で3番目に人気のテレビ番組となり、毎週2,500万人以上の視聴者がこの番組を見ていました。

GEは印刷媒体、テレビ、ラジオを通じて幅広く広報活動を行う一方で、新たな読者の開拓にも常に積極的でした。現在の小さな子供たちやティーンエイジャーが夢中になっているのがTikTok、Snapchat、Instagramなどですが、1950年代には漫画が同じような存在でした。GEは漫画がティーンエイジャー向けの効果的なツールで、子供たちが科学に興味を持ち、技術系の仕事に就くためのきっかけになると考えました。GEが採用したアーティストの中にはバットマンで有名になったジョージ・「インキー」・ルッソーズ(George “Inky” Roussos)がいました。ルッソーズは「科学の冒険(Adventures in Science)」というシリーズの本の挿絵を描きました。このシリーズは人気が高く300万部出版されることもあり、宇宙旅行から電気まであらゆるトピックを取り上げました。もちろん、その内容には厳しい品質管理が行われました。GEのある広報誌によると、出版前に「挿絵は数人のバイスプレジデントとマネージャーのチェックを受けました。」この作業に関われるのはGE経営陣の特権でもあったのです。

GEは新たな読者の開拓にも常に積極的でした。画像提供:ニューヨーク州miSci

現在、GE Reportsは主にオンラインで提供されていますが、今でも数百万人の読者とビューワーがいます。主な配信手段であるGE Briefニュースレターには7万人の購読者がいます。また、ヘルスケア、パワー、アビエーションなどのGEの事業部門はストーリーを伝えるために独自のポッドキャストビデオシリーズ、ブログを提供しています。私はGEのストーリーを伝える広報責任者として、GEがこれまで提供してきた数々のストーリーに誇りを持ち、喜びを感じるとともに刺激を受けています。「ゼネラル・エレクトリック・シアター」でレーガンを見て、ヴォネガットの作品をたくさん読み、ラングの言葉に耳を傾けています。これまで100年間の歴史を持つたくさんのストーリーが私にとって今でも重要な意味を持っています。

ラングは次のように書いています。「新聞記者であったことを忘れてはならないといつも肝に銘じていました。つまり、ニュース価値のないストーリーは決して書いてはならないということです。ニュースを慎重に取り扱うからこそ、GEの青い封筒が編集者のデスクに届いたときに歓迎され、すぐにごみ箱行きにはならないのです。」

ヴォネガットの有名な言葉であるAnd so it goes, 「人生なんてそんなもんさ。」になぞらえるなら、100年たった今、きっと彼ならいうでしょう「広報なんてそんなもんさ。」

ジェットパワーの冒険(Adventures in Jet Power)。画像提供:ニューヨーク州mcSci

38ページにわたる「X線のはなし(The Story of the X-Ray)が医用イメージングの誕生とその応用について説明しています。画像提供:mcSci
児童文学作家のセオドア・ガイゼル(Theodore Geisel)がみんなに愛されるドクター・スース(Dr. Seuss)になる数年前に、GEのために「アドルバート・ブランプの不思議な事件(The Strange Case of Adlebert Blump)」を製作しました。画像提供:GE Reports
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